以下は、ユーシンの社長公募が二度失敗したこと、日経ビジネスとビジネスジャーナルが報道した記事です。
日経ビジネスはややオブラートに包んだ表現、ビジネスジャーナルは辛辣な表現ですが、言わんとすることは同じと思います。
私も以前、ブログに書きましたが、実力会長がいつまで経っても引退しなければ、後継者は育ちません。大塚家具でも似たようなことがありました。
http://ameblo.jp/123search/entry-11781945046.html
それに、娘ではなく息子がいれば後継者にできたかもしれないという会長のコメントも良くわかりません。実の息子であっても、社長としての適性がなければ、かえって取引先や従業員に迷惑をかけるだけです。
「どんな会社であれ、適材がいないと思っても、社内からベストな人材を選んで、社長にしていますよね」という記者の問いかけが、この問題の答えと思います。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/221102/102600091/
当時、この試みはメディアにも大きく取り上げられた。その効果もあり、応募者は1700人に上った。その中から外務省出身の八重樫永規氏を社長候補、ソニー系のフェリカネットワークス出身の丸子秀策氏を副社長候補として採用した。
これで一件落着したかに見えた後任社長選びだが、田邊社長の思惑通りには事は運ばなかった。せっかく、採用した稀有の人材だったが「ユーシンの社長には適さない」と判断。両氏とも取締役から外され、退社してしまったのだ。
これについて田邊社長は「社内には社長の適任がいないことは長年働き振りを見ているのでわかる。社長の適正がある原石も見当たらない」と断言する。
記者は、思わずこう聞いた。「どんな会社であれ、適材がいないと思っても、社内からベストな人材を選んで、社長にしていますよね」。すると、田邊社長はこう答えた。
「う~ん、私に息子がいればねぇ…。娘しかおらんのでね」。
http://biz-journal.jp/2015/04/post_9655.html
田邊氏はユーシンの2代目社長で現在81歳。青山学院大学経済学部卒業後に日野自動車で修業を積み、1961年に家業のユーシンに入社。78年に社長に就いた。健康に不安を覚えたことから、過去10年間は後継者選びを進めてきたが、ことごとく失敗に終わった。
最初は06年4月。自身の後任探しをすることと引き換えに、投資ファンドRHJインターナショナル(旧リップルウッドホールディングス)から20%の出資を受け入れた。RHJは部品メーカー、ナイルスの元社長である竹辺圭祐氏を新社長に派遣し、田邊氏は最高顧問に退いた。しかし、「RHJはナイルスとユーシンを経営統合させるために社長を送り込んだ」と受け取った生え抜き幹部たちが猛反発し、わずか1年3カ月後に竹辺氏を辞任に追い込んだ。田邊氏は社長に復帰し、RHJは保有株全株を売却して撤退した。
そこで10年7月、ユーシンは「公募」による後継者選びを始め、大きな話題になった。新社長に求める条件はシンプル。年齢は30~40代で英語が堪能。365日、国内外を飛び回ることができる体力を持ち、経営者に値する手腕を持っていること。これを兼ね備えていれば、年収3500万円以上が約束された。
東証1部上場企業が、新聞広告で「社長公募」するのは前代未聞のことだ。公募には2週間で1722人の応募者が殺到した。その中から、東京大学出身の元外務省キャリア官僚の八重樫永規氏が選出され、11年5月に取締役社長代行に就任した。
しかし、「根本的な発想が公務員で、金儲けに徹しきれず、商売人には不向きだった」(田邊氏)としてお払い箱にした。「話題づくりをして株価をつり上げるつもりだったのでは」と皮肉る向きすらあった。
さらに14年2月には2度目の社長公募を打ち出し、新社長の最低保証年収を1億円に引き上げたが、応募数は前回の10分1以下の140人に減少。結局、応募者の中から新社長が選ばれることはなかった。「そもそも田邊氏に、社長の椅子を譲る気があるのかどうか疑わしい。結局、社長は自分しかいないと自ら納得して、終身社長のつもりなのだろう」(関係筋)という声も聞こえるが、田邊氏の常識を逸する行動は、当分鎮まりそうにない。